インド日記あとがき

一度インドへ行くと、「こんなところは二度と行くか!」というタイプと、「すぐにまた行きたい」とハマるタイプにはっきりと分かれるらしい。
以前からこの話は耳にしていたので、実際のところはどうなのかということも今回の旅への行動の原点にもなっていた。
もちろん僕は後者であった。表の楽しみのみを味わうツアー利用ということが要因とは思われるが、あまり書店の旅行コーナーには少ないこの国に興味を持ったのは三島の小説からだが、国というよりベナレスという町にであった。露天の火葬という非現実的な世界がいまでも存在する町。ヒンドゥー教の聖地という一つの信仰世界が創り出す神秘的な興味もこれを後押しした。
すでにアジアの旅にハマりつつある僕は、早くも「究極のアジア」に取り付かれてしまい、旅行記を中心に関連本を読み漁ったのは一年前。
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マハラジャ、サリーに身を包んだ美女、ターバンを巻いた屈強な男、瞑想するサドゥー、ガンガー、のら牛、かわいい物乞い少女、悪臭、汚わい、ゴミだめ、貧困、なんでもありのスーパーカントリー。
この国はめちゃくちゃに元気だ。日本の不景気なんて微生物のような世界である。埃とゴミだめのような人間の森の中、小さな仕事を急がず分け合いアリのように働いている。
自身の不元気な社会から逃げるようにこの国に惹かれてしまったのである。惹かれることを蓑傘に逃げているのかもしれない。半生を越えて自分を見つめ直す場所ははたしてインドであったのか。
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どんな小さなものでも旅は現実の世界から離れた日々の連続である。特に発展途上の国々はその環境や異なる社会構造により、全く非凡な時間を経験する。この小さな精神修行ともいえるアジアの旅が今の自分にはやさしく体内へ流れては、ビタミンになっているようです。
「百聞は一見に如かず」という言葉がありますが、たしかに旅の体感のほとんどは視野によるものである。建築など写真で見るのと現物では雲泥の差があり、目にはものの奥行きを感じ取る機能があるようで、その中に入って初めて絶対的な大きさを判断するのだ。
階段好きの僕が「インド建築案内」で知ってしまった階段池。訪印するしかありませんでした。
読み物では見ることの要件を充たすことは出来ませんが、書くことにより伝えることを選びました。読後インドへ行ってみたいと少しでも感じて頂ければこれに勝るものはありません。
(ご精読ありがとうございました。