「建築家の家」を建てるな

建築家は自分の感性を磨き、世界をよく見て歩くことが大切などと言われるが、四六時中そんなことばかりしていても小金持ちにもなれそうにない。ボロ家からのこのこ出て来て大邸宅の打合せに行く建築家哀れなり。しかし建築家が大邸宅に住んだのでは、それはもう打ち止めだという感じがするのだ。また、建築家が親の財産でもせしめて「建築家の住まい」なるものを設計して、これ見よがしに住んでるのを見て、半分は羨ましいが、半分は何かウソくさい気がする。
自分というものは今生限りの資料庫であり、建築哲学の泉である。(格好つけすぎ)そしてこの資料庫には行き止まりがない。建築にもまた行き止まりがない。建築は自己の中で絶えず変化し、成長して行くものだから。
建築家がいかにも建築家らしい家に住んだとき、彼の資料庫は蔵書スペースが一杯になってしまったように思うのである。自分の体験・研究の場としての、自分の生活空間は、決してある時点で考えをやめた「そのとき」までの能力の結果であってはならないと思う。新しい体験が、新しい工夫が、新しい夢が、そこから生まれてこないからだ。(難しいやっちゃな
僕はおかげさまで貧乏暮らしゆえ、瀟洒な「アトリエをもつ家」など持てないでいます。とはいえ一年に一度くらいは自分の「建築家の家」を夢想してみることはあります。しかし次の年には、また違った図が出来ています。ある年泡銭でも入り、「そんな家」を実現してしまったら、次の年には「建築家の家」など描かないかもしれません。
建築という課題は完成することがありません。常に新しい夢を盛り込んでゆくエネルギーはボロ家のような不自由で未完成なあばら屋から生まれくるもののような気がしてなりません。
なーんて言っておきながら金さえ出来たら「自邸」なるものを造ってたりして(・・・、)こんなやつを信じるのは考えものですが、一面の真理はあると思います。では建築家は自宅を造ってはいけないのか!となるが、(造ってはいけないのではなく、造れないのが正しい姿です)それは「建築家」を終わりにしたくなったら実現するのもよいでしょう。
(建築家の究極の業務は「自らが建築主の家」であると信ずるからです。