謎の多い金堂

法隆寺の謎(10月22日参照)第四の答え

金堂には本尊が三体あるが、「真」の本尊は左側の阿弥陀如来像である。やはりこの寺は太子一族の鎮魂の寺であり、藤原一族はここで惨死した聖徳太子たちが、極楽浄土へ往生してくれなければ困るのである。阿弥陀仏というのは、仏につかえた者を極楽浄土へ連れてゆく案内人であり、「死霊よ、どうか阿弥陀様の手によって極楽浄土へ旅立って下さい」との願いが込められているのである。「この本尊」は、鎌倉時代に再造してまでここに置かなければならなかったことが、その重要さを証明している。従来より本尊と呼ばれていた中央の釈迦如来像(死後の救済)は「聖徳太子」であり、右側の薬師如来(病気の治癒)はその父「用明帝」を表している。これら等身の像は、日々尊敬の対象として、「現世の人々を導く」本尊である。
衣装について、本来如来像と呼ばれるものは、インドの僧のごとく、薄い布程度を身にまとい、悟りを得て、物欲を捨てた裸に近い姿のはずであるが、これらの像は北魏様式の皇帝の姿に似ている。やはり、何も身に付けない「世捨て人」ではなく、帝として崇める意識と、死者を弔う鎮魂の願いが込められているように思える。かといって「仏の候補者」ではないので菩薩姿でもない。以上などから如来でもなく、菩薩でもない不可思議な仏像となったのである。
また中央の釈迦三尊(両脇の二侍は二人の息子又は、妻と母であろう)の光背の火焔が異様に大きいのも、地獄の怨霊の怒りのイメージか、天智九年の火災の猛烈な焔のイメージからきているようでならない。堂内も全てに死の影がさしているようだ。納められている仏像全てのつくりに刀剣-舎利-火焔のモチーフが付きまとい、あの惨殺事件を暗示しているかのごとくである。では「火災の際」、「どこに居たのか」といえば、橘寺ではないだろうか。藤原家の安泰を一番に願った不比等の妻で、聖徳太子の信仰者であった橘三千代が再建の際、新金堂へ移したと思われる。旧伽藍は全て焼失してしまったことを考えれば、旧金堂にあったものではないことは明らかである。前述した「二階の四間」やこれら安置された仏像のつくりから、金堂もやはり崇りを鎮める「鎮魂の塔」を表した建築であるに違いない。
(これら以外にも謎は多いが、三像が揃うとヨハネ、キリスト、マリアの姿に見えてしまうのは僕だけであろうか。