聖徳太子に会いに行こう

法隆寺の謎(10月22日参照)第七の答え

聖霊会(しょうりょうえ)とは何か?
これは聖徳太子を祀る祭りである。夢殿がつくられ、法隆寺は「完全完成」した。しかし、太子の霊はいつ「暴れる」か分からない。そう考えた行信(僧)は、封印した太子を命日に復活させ、後の世を見せることが真の供養であると考えた。
聖霊会には、毎年太子の命日に聖霊院で行われる小会式(しょうえしき)と、50年に一度、舞楽を伴い大々的に行われる大会式(だいえしき)があるが、ここで云う本来の祭りは大会式のことである。
「自由に舞う復活した太子」を表現した儀式を継続的に行うことの意義は、太子一族への弔いの意思を後世まで表してゆくことにある。
聖霊会は太子自身とその子孫を表した「舎利と七歳像」を、東院の絵殿より運び出すことから始まる。続いて「霊と人間」の列をつくって西院へ赴く。この舎利と像を運ぶ「舎利御輿」をかつぐのは八部衆である。天、竜、夜叉、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺迦(まこらが)の八名がそれぞれ鬼のような面を付け、御輿をかつぐのだが、黄泉の国から来たような化け物である。これはまさしく葬列であり、墓場から復活した太子の列である。やはり、御輿の原型は「柩」であり、祭りの御輿を「ワッショイ」と振りかざすのは、閉じ込められていた怨霊を「暴れさせる」ためであるように思う。
行列は西院の普段は開かずの「中門」から入り、講堂の前に設けられた舞台を中心とした場所へ到着する。舎利と七歳像は御輿から出され、講堂の本尊、薬師如来の前に置かれるのである。この後、舞台では各種の舞が演じられ、法要へと続くのだが、儀式の最も重要な舞楽は「蘇莫者(そまくしゃ=蘇我一族の亡霊)の舞」である。これが聖霊会のメインイベントで、「復活した聖徳太子の姿」なのである。普段お堂に閉じ込められている鬼(太子)がこの時とばかりに暴れるのである。(当然見たことはない。
この大会式、前回は1971年(没後1350年)であり、次回は2021年(没後1400年)に行われるはずである。このスタンスでは一生に一度となるため、約11年後の次回の際は、「聖徳太子に会いに行こう」と思う。天平20年(748)から始まる聖霊会、この1200年以上も続く「大祭」が以外と知られていないことをこの程知った。
この回を持ってひとまず法隆寺の研究を了とします。まだまだ謎や不思議なことが多い寺であるが、全て科学の範疇であるのか?・・・継続的調査を要する物件である。