日本書記に書かれなかった法隆寺

法隆寺の謎(10月22日参照)第一の答え

「日本書記」(推古天皇以後の歴史書)は藤原不比等(ふひと)〔鎌足の次男〕を中心にして作られたからで自己に都合の良い歴史解釈としているのは間違いない。
古代史最大の惨劇といわれる聖徳太子の息子、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)〔太子と同一人物説あり〕以下25人惨殺事件から始まる皇室蘇我氏×藤原氏皇位継承を巡る史中にあって、事件に加わった一族の「アリバイ証明」として書の編さんが行われたのである。
山背大兄皇子殺害を蘇我入鹿(そがのいるか)一人の単独犯にして、さらに入鹿を殺害(大化の改新)し、この犯罪が聖徳太子の復讐と思わせようとしている。まさに因果の偽造である。これこそ「日本書紀」製作の目的の一つである。藤原鎌足(かまたり)〔中臣鎌足〕が太子一族惨殺にからんでいたとすれば、事実でなくとも隠し通さねばならない記録である。
法隆寺再建」は仏教を定着させた聖人(聖徳太子)の鎮魂の塔として、保護者である藤原氏の仏教政策の一つとして行われたもので、「いつ」、「だれが」、「何のために」造ったかを正しく記載することが出来ない施設だったのである。特に「いつ」を曖昧にすることが重要で、犯罪の時期から推察されぬような作為が感じとれる。
子供の頃、法隆寺飛鳥時代の建物なんて聞いた記憶があるが、それは初代法隆寺(若草伽藍)のことであり、今見る再建法隆寺についてはこれまで伝えられてきた時期よりずっと後、和銅4年(711年)頃に完成したらしいと推定されている。
(教科書も都合よく変わるんだね、、