あいまいな法隆寺資財帳

法隆寺の謎(10月22日参照)第二の答え

法隆寺聖徳太子が建てたと長い間そのように伝えられたのは、この資財帳(正式には「法隆寺伽藍縁起並び流記資財帳」といい、政府に差し出す財産目録のことである)の記録によるからである。これによると・・用明天皇及び代々の天皇のために推古天皇と「聖徳太子」が法隆寺学問寺、四天王寺、その他5寺(略)を建てた・・とある。続いて・・孝徳天皇、大化三年(647)戊申(つちのえさる)9月21日に食封(へひと〔簡単にいえば寄付〕)三百戸を賜り、また戊午(つちのえうま)4月15日に播磨国の領地を賜った・・と書かれている。これで見ると法隆寺はたしかに聖徳太子によって建てられたのである。そして焼失や再建の記事はない。これでは非再建論者が若草伽藍の発見までの長い間、法隆寺の焼失、再建を信じなかったのは無理もないことである。
聖徳太子は推古三〇(622)に亡くなっている。息子山背皇子も蘇我入鹿軽皇子孝徳天皇)らにより、皇極二年(643)に殺害されている。ところが、大化元年(645)軽皇子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に入鹿殺害を命じ、自らは即位し孝徳天皇となっている。ここで因果の偽造が行われたのだ。自ら手をそめた罪を入鹿のみになすりつけ、あたかも聖徳太子や山背皇子の怨霊の復讐と見せかけ入鹿を殺害する。この罪の意識から崇りを恐れ、法隆寺へ食封を納めているのである。播磨の国の田畠五〇万代も、すでに亡くなっている聖徳太子を上宮聖徳法王として経典講読をさせるなどして得たことにしている。まるで生きているかのごとく記載しているのだ。
この法隆寺の「伽藍縁起」並びに「資財帳」において、厳密さの要求されるのは文字通り資財帳の部分だけである。どのような仏像が何体あるかなどは正確に報告されているが、「伽藍縁起」の部分は「別もの」らしい。それは寺が皇室や時の権力者といかに深い関係を持っているかを強調することが重要であり、真実はもちろん「みてくれ」の部分も語られるのである。もちろんこれに対し国家側も決して歴史的性格さを要求しない。つまり、藤原一族に都合の悪い内容は「記載しないこと」を要求されたのである。
「あいまい」というのは「不正確」という意味ではない。ただ「抜け落ちている」のである。