記憶

記憶というのものは、ひとまとまりになって脳の引き出しに納まってる訳ではありません。その部分を刺激すれば、特定の形象(イメージ)が浮かびあがるという細胞組織はありますが、一つ一つの事象が固体のようにしてファイルされている訳ではないのです。
例えば、僕の頭の中にある「犬坊里美」の顔は、記憶の保管場所と直線的に結ばれている訳ではなく、龍臥亭で初めて出会った時の彼女の顔、その後馬車道へ出てきて再開した時の彼女の顔、つい先日研究所へ訪ねてきた時の彼女の顔、これらが写真のようになって、アルバムやファイルに仕舞われているという訳ではないのです。「全ての記憶」をそのようにしていたら記憶システムがパンクしてしまいます。(後付メモリでもあればよいのだが)
僕らのイメージに浮上する記憶というのは、いわば情報の有機的な集合体といえます。様々な場所から発せられる情報の欠片が一つの「像」を作り出し、それらを認識した時の周囲の物音、匂い、その時の情感、そしてそれらの発信点は刻々と入力される新しい情報の影響を受け、常に「上書き」されていくので、それらが描き出す記憶も刻々と変化し、生まれ変わっているといえます。人間の記憶や認識というものは、その瞬間の脳が明滅させる形のない、モヤモヤした最終形のない粘土細工みたいなものと考えられます。
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マグリットの絵(こめかみから血を流した石膏像)のことではない。