タージ・マハル

シャー・ジャハーン帝は、ムガル朝第五代皇帝としての治世の能力よりも、その最愛の妻の死を悼んで世界に冠たる「タージ・マハル廟」を建てたことで、歴史に名を残すことになった。王妃ムムターズ・マハルはイティマード・アッダウラの孫娘で、「宮廷の冠」を意味するタージ・マハルとも呼ばれた。彼女へのシャー・ジャハーン帝の愛情は終世変わらず、14人の子供を産ませたばかりか、戦地に赴く時でさえ妻を伴ったという。1629年の遠征中に、ムムターズが15人目の出産の産褥熱で亡くなると、彼女の美しさと優しさを永遠に残すために、彼は22年の歳月と2万人の職工を投じて、壮大にして典雅なる白亜の廟を建設した。しかし要した莫大な費用のため国家財政を逼迫し、皇子アウラングゼーブによってアーグラ城に幽閉されてしまった。囚われの帝はヤムナー河のほとりに建つ、妻の眠るタージを眺めながら余生を過ごしたという。
デリーのフマユーン廟で形式の確立したムガル朝の廟建築は、ここに頂点を迎える。このタージの特異性は、廟を四分庭園の中央に配置するのではなく、ヤムナー河を背後にし、庭園を前面に置くことによって、門を入った時、何も妨げるもののないパースペクティブの焦点に存在させることだった。全て白大理石で造られ、4本のミナレットよりも高い、高さ65mのドームを戴く「白亜の館」はその造形力と比例の美しさ、そして細部まで完璧に仕上げられた技術によって、その高貴さと完成度を高めている。しかし、インド建築の最高傑作と呼ぶには、そのスタイルはあまりにもペルシャ的であるように見える。その外観の雄大さに比べて内部の「無空間さ」を考えると、これは建築というより、巨大な工芸品ではないかと思えてくる。(期待程の感激が伴わなかったのは正直なところ
「実物を見る」という重要さは「その大きさを感じること」のみなのである。ペルシャ的というのは、僕の考える「アラビアンナイト」の世界で、月夜の砂漠に浮かぶシルエットと化した建物。まさにタージ・マハルなのである。
(世の奥方の「ここまで愛されたい」との声が聞こえそうであるが・・・、