ソ連参戦

昭和二十年八月八日、ソ連が対日宣戦を通告した。これはこの年の二月に、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳がクリミア半島のヤルタで結んだ「ドイツ降伏後三ヶ月以内にソ連は対日参戦する」という密約によったもので、翌九日の未明からソ連満州に兵を進めた。日ソ中立条約(不可侵条約)がまだ生きているのにである。
日本はヤルタ協定など知らず、最後まで米英との休戦の仲介をソ連に頼み続けていた。(・・・、元祖KY?
その満州関東軍も、精鋭のほとんどは沖縄、台湾、また本土防衛のために駆り出されていて、残っていたのは装備貧弱な老兵や少年兵と現地調達の民間人であった。そんな中へソ連軍は猛然と侵入してきたため、すでに勝負にならず拘束となった。(最後まで「特攻」した者もいた)長崎にも原爆が投下され、八月十五日には玉音放送、内地では戦争は終わったが、満州にいた者はそれまで見下していた現地人の中に取り残されてしまった。(ここから新たな戦争が始まることになる
この「シベリア抑留」は、ソ連からすれば、「日露の記憶(報復)」もあっただろうが、先のポツダム宣言の条項に、「北海道の北半分をソ連に割譲する」を加えることをアメリカに反対された「腹いせ」があったと云われている。戦勝国として得のなかったソ連は、モノより国土開発を手に入れることにしたのだ。(ソ連も欧州戦線にて労働力を失っていた
アメリカが原爆投下を早めたのは、このヤルタ協定があったためとの見方もある。ソ連が参戦する前に「決着をつけたかった」訳である。後に国際的優位に立つためにもソ連に「借り」をつくりたくなかったアメリカは、ある意味「ソ連に対して原爆を落とした」とも云えないか・・・。
ソ連のようなヤツのことを fair weather friend というらしい。