トゥール・スレン博物館

8:18、外へ出ます。相変わらず出口ではトゥクトゥクのドライバーに止められますが、(失礼します。今日は「移動日」ではないので、5分丈のボロデニムに洗い晒しのTシャツ(欧米風男女の抱擁柄)姿です。街角にいた若いカップルの一人(女性)の視線を感じたので、(奇異に映ったか?)手を振ると、振り返してくれた。(ありがとう、彼氏取り替える?・・・(たぶん変な外国人です。(・・・、)それはさておいて、突き当たりまで一路南下します。街が活気づく時間帯で様々な業種の店開き姿が見られますね。貸し自転車屋に洗濯屋、床屋は4000リエル。(約1ドルか)「カット85円」なんて書いてあったらうれしいけど。
大通り(シアヌーク通り)へ出ます。右へ半ブロック横切り、さらに南下します。この辺りはニューヨークのように通りが碁盤の眼のような配置になっているので、通り番号だけで目的地までたどり着けます。右手に「古い団地のような建物」が見えてきました。8:37、「トゥール・スレン博物館」に到着です。(20分程でしょうか)さすがの観光地で、さして広くない道路に観光バスが縦列駐車しています。「ムショ」のような塀(刑務所でしたので当然ですが)の中へ入ると、パームヤシが植えられた芝生広場が眼に入ります。元は高校の校舎だったという箱型の建物が「コの字型」に配置され、先入観もありますが、何か殺伐とした雰囲気が漂っています。これは各外廊下に脱獄防止の「バラ線」が張り巡らされているからでしょうか。
ここは1975年4月から1979年1月までの3年8ヶ月に及んだポル・ポト政権下で「反革命分子」とみなされた人々が家族と共に捕らえられ、拷問が加えられた施設で、当時「S21(セキュリティーオフィス21)」と呼ばれたトゥール・スレン刑務所であり、現在はポル・ポト派の残虐行為を後世に伝えるための博物館として公開されています。
記録には約2万人が収容され、そのうち生還できたのはわずか7人だったと云われています。・・ただこの施設はあくまで刑務所であり、(拷問中に殺された人も多数だが)その後例の「キリング・フィールド」へ運ばれ、処刑されていったということです。(3ヶ所見てきたやつ)いわばここは「骨になる前の場所」という訳です。
館内には、ここに収容されたほぼ全員の顔写真が貼り出され、狭い独房室や、拷問道具、またその様子を描いた絵が、その凄惨な現場を静かに物語っています。その約4年間に人口の4分の1が処刑されたというからこれは「アウシュビッツ」の比ではない。人を減らしては国が成り立たないのに、彼らはどんな国づくりをしたかったのだろうか。・・・こんな歴史があるため、この国には高齢者が非常に少ない。旅先でお世話になる人が皆若いのは、79年以降に生まれた人が生産人口の大半を占めるからのようです。・・この薄汚れたタイルも数々の血を吸ってきたのだろうか。(森村誠一の「悪魔の飽食」を思い出しました。
(汗も引いてきます。