相沢事件

昭和十年八月十二日、猛暑のことである。陸軍省軍務局長室で白昼凄惨な事件が起きた。
永田鉄山軍務局長が、福山連隊所属の相沢三郎中佐によって刺殺されたのである。これは以前より陸軍内でくすぶっていた、皇道派と統制派の確執の一つの頂点でもあった。永田は皇道派の憎しみの中心人物であり、永田は林陸相(人事担当)を操って皇道派をつぶす元凶の如く見られていた。特に、それまで林を育てた真崎教育総監を罷免させたことは、皇道派にとってもはや足止めのきかない状態となっていた。
遡ること前月十九日、相沢は永田軍務局長に対し最後通告をしている。
「私は、閣下が青年将校の純真なる国家革新運動を阻止することの不当を申し上げ、特に教育総監の更迭の如きは統帥権の干犯であり、かしこくも陛下の軍隊を財閥や政党に利用するなど私兵化も甚だしく、直ちに責任をとり辞職されるよう要求します」
しかし、永田は聞く耳を持たず、相沢を一蹴している。
「永田伏誅」の後、相沢は悠々と山岡整備局長室へ戻り、「閣下、永田閣下に天誅を加えてきました」と左手から血を滴らせながら平然と報告している。
これは統制派による粛軍(軍の規律を厳正すること)や、親英米策内閣に対する亡国を危惧する皇道派青年将校らによる、一つの前哨戦であったと云える。この確執はさらにエスカレートし、翌年の「二・二六事件」へと続くのである。
(母校である日川高校は、初戦を飾ることは出来なかった。